都城西飛行場は、都城市が、和田原一帯(今の都原・和田・尻枝・加治屋・蓑原・久味木地区)の土地を、約100名の地主から買い上げ、土地の人や一般市民、学生、生徒など延べ約3万8千の人々の労働奉仕で造られました。その総面積は、約十万坪(東京ドーム7個分)という広大なものでした。その後、都城航空機乗員養成所敷地として、西南部(蓑原地区)の約25万坪が拡張されました。戦争が終わってから、西飛行場跡は、主に農地(畑)として、使用されるようになり、大いに戦後の食料不足を補えました。それも、戦争で外国に派遣されて帰国してきた人たち(引揚者)に、優先的に、その家族の状況に従って、一定の土地を、ただで与えられました。その後、世の中が落ち着いてくるにつれて民家が増え続け、今や、この横市地区は、激しい都市化の波が押し寄せてきています。私が、今の地区に居住し始めたのは、昭和45(1970)年からでした。今や、西飛行場跡は、戦時中の面影は、すっかりなくなり、見事に姿形が変ってしまいました。日々に進歩する横市地区として、益々充実発展が期待されています。しかし、私は、この西飛行場跡(横市地区)が、あの悲惨な、太平洋戦争の国内最前線であったこと、そして、ここで多くの兵士たち特に、夢多い若い人たち、一般国民が、祖国のために戦って、尊い生命を失い、犠牲になったことを、決して忘れてはならないと強く思います。そして、戦争は、決してしてはならない。平和こそ大切なものだと改めて思います。