志比田自治公民館長であった永山正男氏は、南横市町に所属する本地域に、平和の里を樹立したい意向が強く、地名も「都原」と改称し、昭和41年、高千穂学園運動場にて都原自治公民館の組織活動の出発として、祝賀小運動会を開催し、開拓組合の集会所をその拠点とした。当時、本地域は、戦後、開拓組合の方が入植し、戸数としては数十戸足らずの小集落だった。目ぼしい機関としては、ろう学校(現 都城さくら聴覚支援学校)・九州電波監理局などが点在し、ひょうぼうとした平原であった。数年の間は、集落の記念行事や集会は、主に開拓組合の集会所を利用していた。西小・西高校・都原団地が造成され、その周辺に新築が増えはじめ集落戸数が増加してきた。昭和47年に、自治公民館を新築し、平成9年に、現在の都原東・都原西・都原南・都原北自治公民館が分離独立した。