この台地は、かつて旧陸軍の都城西飛行場であった。戦後、農地として開拓されることになり、昭和21年9月に引揚者と復員軍人による34戸が入植した。入植者で結成された都城西開拓農業協同組合は、昭和47年7月に解散したが、その時の組合員は22戸であった。入植者たちは、この地を都原と名付け、新しい村づくりに励んだという。組合員の大変な苦労や努力の結果、広大な、しかも整然と区画された農地が出現した。(都原開拓記念碑、宮崎県開拓史)
昭和35年、永山正男組合長から都城市に対し、耕地整理に伴う字の境界変更手続きの陳情がなされた。開拓された土地は、戦前は飛行場として使用され、戦後に農地転用されたもので、従前の字の境界は用をなさず、新しい境界に変更する必要があったからである。変更には議会の議決が必要であった。同年6月、定例市議会に提案され、7月1日告示されて新しい字と境界が定められた。都原や霧原は、現在でも使われているが、他の字はほとんど使われていない。それは、都原と霧原は、その地区に居住者がいたので地名として使われてきたのに対し、他の字は農地のみで通常使用されることがなかったからであろう。議案に貼付された図面には、ろう学校(現 都城さくら聴覚支援学校)、都城電波監視局、自衛隊官舎、小規模市営住宅だけで、しかも、すべて東南部の幹線道路沿いにあって、ほかの地域はほとんど農地のみであった。