戦前の下蓑原は、飛行場の拡張工事により、そのたび移転を強いられた。特に、昭和15年からの都城航空機乗員養成所開設のための拡張工事により、下蓑原の住民は、ほとんどが移転して、地図は完全に塗り替えられた。墓地・公会堂も移転し、他に類を見ない苦しみの年月となった。
 通称三角山は、当時の下蓑原の中心地であった。現在の「あけぼの菓子司」前の路地を東へ約350m行ったところにある霧原自治公民館の燃やせるごみ置場付近である。