明治3(1870)年、上荘内郷地頭、三島通庸が持尾稲荷等を大改修して母智丘神社と命名し、記念碑とした。この碑文は、上半分が空白で地頭以下43名の郷役職氏名を彫った段階で未完の碑である。これは神社大改修の翌年(1871)の廃藩置県により三島地頭が東京府権参事になり碑文完成に至らなかったと思われる。この碑は、明治初めの郷組織や時代背景を感じさせる。