永山 実男(都原東)

 私は、横市の尻枝で生まれて、子ども時代を尻枝で過ごしました。

昭和20年8月6日、都城の市街地が大空襲にあった日に、私の実家も米軍による焼夷弾の直撃を受け、母屋・馬小屋・釜屋などが丸焼けとなりました。近くに駐屯していた兵隊さん達が駆けつけ消火に当たってくれたおかげで延焼を食い止めることが出来ました。

焼け残ったのは8畳間位の物置(米蔵)だけが残っていたことを覚えております。その時に馬小屋の中にいた「栗毛の馬」も丸焼けとなり庭先でドタッと倒れて絶命しました。そのような情景を、戦後70年経った今でもはっきりと脳裏に焼きついております。
 

当時、私は5歳でしたが終戦当時のことは何故か、今でもはっきりと記憶にありますが、それ以前の事はあまり記憶に残っておりません。今思い出すに、現在の横市地区公民館の北西側辺りは、軍の接収地であり、軍関係の建物や「三角兵舎」などが建っていて、その前を誘導路や土盛したコ型の格納庫(模擬飛行機などが格納されていた記憶あり)などがありました。その誘導路は、ただ土を固めただけの幅10メートル位の道路で、今の尻枝公民館辺りから西小のプール辺りを通り加治屋集落の方へと延びていました。

 また、西飛行場に隣接していた当時の尻枝集落には、地下2階建の通信施設や対空施設のトーチカなども数箇所あり、その施設なども米軍の空爆で破壊され、その戦争遺物が、昭和30年代まで見受けられました。隣の栗山俊徳さん宅の屋敷内の杉の木の上に大きな拡声器とサイレンが取り付けられていて、米軍機の飛来を探知すると「敵機来襲」「敵機来襲」の声や「空襲警戒警報発令」「空襲警戒警報発令」などと緊迫した声で放送され、けたたましくサイレンの音が鳴り響いていたことを思い出します。そのたびに防空壕の中に逃げ込んだことを昨日のように覚えております。ただただ今回は私の終戦時の記憶を羅列したに過ぎない駄文となりましたが、今の尻枝周辺の急激な変貌ぶりを思うにつけ、終戦当時の状況を知って、誰か一人でも心の片隅にでも留めて置いて下されば幸いです。