今山 一正(母智丘小 昭25卒、東加治屋)

昭和19年4月、私は横市国民学校1年生として入学しました。

 時、戦況はかなりきびしく、登校の途中で、空襲のサイレンを聞いては我が家へ引き返すと云った日々でした。
しかし、それでも、学校での生活もあったのです。

ある日、竹と紙で、実物大の飛行機作りが始まりました。

 私共は材料運びなど、上級生の手伝いです(何の教科に入っていたかは不明)。何日か経って、見事な(多分)飛行機が完成、それを上級生がどこかへ運び出しました。

 私共は、校門まで見送りました。あとで聞いたのですが、その飛行機は、西飛行場(西小の南側)へ運ばれ、並べられたようです。そして敵機に爆撃してもらい、少しでも弾薬を使ってもらおうとの発想だったようで、その当時、子供心にも納得したものです。2年生で終戦。母智丘小学校と変り、「元敵兵」が進駐してきました。 

 あちこちの家々では、門に柵作りが始まりました。多分、昔、日本兵が外国でやった様な事を想像し、自衛のためだったのでしょう。しかし、「元敵兵」殿はいたってやさしかったようです。

 私共の学校へ来たときなど、井戸ポンプをくんでくれたり、バターボールをくれたりして、少なくとも子供達への心証はよくしたようでした。生活は、極度の品不足で、大変だったようです。

 勿論、教科書等、今では見ることも出来ないような、お粗末なものでした。そして、自分一代の本じゃなかったのです。弟、妹、親戚のものなどと、それこそ、日本人皆のものと云った感じでゆずり合い、使いあったものです。物を大切にする心は、ある程度、身につかざるを得なかった時代です。

 又、戦争が終ったからには、当然、教科書の内容で都合の悪い個所が多々ある訳です。さりとて、品不足の折柄、新しいのに取換える訳にいかず、苦肉の策と云う奴で、不都合な個所は、墨でぬりつぶした教科書となりました。こう云う訳で、小学生時代は、戦争と終戦のどさくさのみが深く印象に残っています。

 戦争は、何にも知らず、なんの罪もない幼い子供までも哀れな目に逢せるのです。平和な今こそ、二度と戦争のない平和な世の中を作るべく努力が必要だと思います。(西小創立百周年記念誌より抜粋)